Bar 東郷健



〜東郷健からみなさんへ〜

いままで東郷健は、新宿2丁目などで長いことゲイのための店をやってきたけど、この新宿ゴールデン街五番街のBar『東郷健』は、いろんな人にきてもらいたいです。金持ちも貧乏人もカンケイない、マイホームとはちがったあったかい店にしたいです。だから、ツマミは既製品みたいなものじゃなくて、自分で作ったものを出してます。そこで、私の人生みたいなことを通 じながら自分なりの考えを一緒に語りたいです。

<Bar 「東郷健」ブログ開設しました!>
http://bar-togoken.jugem.jp


<場所>
東郷健と呑んで語れるお店 BAR「東郷健」は、新宿ゴールデン街5番街です。



<営業時間>

月曜日/20:00 〜 24:00
火曜日/20:00 〜 早朝マデ
水曜日/20:00 〜 早朝マデ
木曜日/20:00 〜 早朝マデ
金曜日/20:00 〜 早朝マデ
土曜日/20:00 〜 早朝マデ
日曜日/18:00 〜 23:00

※日曜日は、ゲイの方を中心とした集いです。


<『東郷健』のお酒>

いろいろありますが、なんといっても東郷健では「パリ野郎」! 
砂糖大根で作ったパリ製の焼酎です。東郷健には思い出深い一本。

<『東郷健』のツマミ>


最近は「東郷健オリジナルドレッシングのサラダ」が好評です。
「切り干し大根」や「水菜を煮付け」なんかもよくでます。 味付けは、関西風!


<『東郷健 もっともっと愛を パート3』のイベント情報>


2006年の9月から行われている『東郷健 もっともっと愛を』が3回目を迎えます。

<会場
ロフトプラスワン
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/

<日時>
2007年9月28日(金)

<時間>

開場:18:00 開演:19:00

<チケット>
前売り券3000円 当日券3500円

<内容>
団鬼六、松田政男、東郷健のトークショー
大黒堂ミロの男同士のSMショー
歌や踊りに、東郷健の映画の上映など盛りだくさんの内容です。

団 鬼六
日本を代表する官能小説家・小説家・脚本家・演出家・エッセイスト。東郷健とは関西学院大学で同級。小説「美少年」では、主人公が、同級生の東郷健(実名で登場)に男色の相談をもちかける場面 がある。

松田政男
日本の政治運動家、映画評論家。東郷健の映画「もっと もっと 愛を」(主演 田口トモロヲ)などを評論。東郷健を公私ともに協力に支援。

※チケットのお求めは、ロフトプラスワン店頭 TEL03-3205-6864
新宿ゴールデン街 五番街のBar『東郷健』で販売しております。


東郷健のこと

 1932年6月10日、兵庫県加古川市で生まれる。関西学院大学商学部を卒業後、銀行員となる。退職後ガソリンスタンド、スーパーマーケット、また、日本ではじめてのブロイラー産業の経営を手掛けた。

  紆余曲折の後、姫路市にゲイバーをオープン。その名は『るどん』。『るどん』の名の由来は、三島由紀夫の小説『禁色』の中にでてくるホモ達のあつまる店の名であり、フランスの画家オディロン・ルドンの絵が好きだということでもあった。この『るどん』には、小説家の椎名麟三や中村真一郎などもよく来店した。特に椎名麟三とは『るどん』で交友が深まり、当時のことは、『隠花植物群』(東郷健 著)に椎名麟三が序文を寄せていることからも明らかである。また、椎名麟三は東郷健に色紙を2枚贈っている。一枚は「冬の蝿 死にどころなく 這いにけり」、もう一枚は「しばしこそ慰め遊ばん園の花 姫路の夜をいかで忘れん」と詠んでいる。

 1971年、参議院選に全国区から立候補。当時の恋人と従業員の3人で選挙演説を開始する。宣伝カーに乗って演説をしていても、誰も見向きをしないことから「オカマ、オカマの、東郷、健。参議院議員立候補、オカマ、オカマの東郷 健がまいりました」と東郷健は叫んだ。その途端、中年の男が、手に持っていた荷物を落として、「とうごうけん」と書いた赤い宣伝カーを見たそうである。これでいこうと決め、東京中、オカマの東郷健と、マイクに向かって訴えはじめた結果 、『オカマの東郷健』が誕生する。このときのことを、東郷健との対談の中で、野坂昭如が語っている。野坂昭如は、東京オリンピックの少し前をさして

野坂 「あの頃からゲイバーが一般化してきて、女性もゲイと話すると面 白いから飲みに行くようになって、一種の市民権みたいなものが少しずつでてきてね。あるいは芸能界でも、自分がホモであることをあまり隠しだてしない―あまりひんしゅくしないような状態に昭和40年くらいからなってきたね。そこへ、あなたが『オカマの東郷健』ってでてきたわけね。あれは 何年でした?」

東郷 「46年です」

野坂 「あの時、見てて、革命が起こったと思ったね。テレビでの公報で堂々と自分はオカマとはっきりいって、オカマの権利を主張するというのは、新しい民主主義の革命を開いたと思って、それ以後、あなたを尊敬しているわけですよ(笑)」

 東郷健は、参議院選に14回、衆議院選に1回、東京都知事選に1回立候補した。(東郷健の選挙演説はyoutubeなどでご覧いただける。)1982年に参議院選挙の全国区が比例代表区に変ったことで無所属での立候補ができなくなったことを契機に、東郷健は『雑民党』を結成し代表を務める。『雑民』とは、『deracine(フランス語で浮き草の意)』。『雑民』という言葉には、東郷健の全ての思想、行動、そして魂がこめられている。現在においても東郷健は『雑民』を世に広めたいと切に願っている。

  また、『the gay』などの雑誌の編集・発売も通して、ゲイの人たちをはじめ、ひとの自由の権利を求め続けきた。(残念ながら現在は休刊中)

  東郷健の従兄弟は、影絵画家の藤城清治(ふたりの母が姉妹)。東郷健とは、唯一、親類付き合いが続いている。

  東郷健の愛猫の名前は「チン」。東郷健曰く「チンはチンでもチンチンのチンやけどね!」


著作

『隠花植物群 男と男の愛の告白』 宝文社 1966
『雑民の論理』 エポナ出版 1979
『欲情のキスをどこにするのか』 三一書房 1981
『転形哀傷歌』 雑民の会(二十一世紀書院) 1984
『常識を越えて −オカマの道70年』 ポット出版 2002

対談集

『東郷健の突撃対談』 雑民の会(二十一世紀書院) 1984   
荒木経惟/内田裕也/山本晋也/平岡正明/梨元勝/白井佳夫/金坂健二/小沢昭一/内田栄一/川上宗薫/神代辰巳/宮島義勇/丸山邦男/沼正三/赤塚不二夫
『東郷健の突撃対談 第2集』 雑民の会(二十一世紀書院) 1984   
田中康夫/内藤陳/岡留安則/須藤甚一郎/和泉聖治/野上正義/関根弘/丸山実/板坂剛/松田政男/諏訪優/金坂健二/太田竜/西垣内堅佑/高信太郎

映画(製作)


『雑民の詩』(主演 東郷健)  『もっともっと愛を』(主演 田口トモロヲ)  
など多数。

映画(出演)


『性倒錯の世界』 監督 中島貞夫 1971  
『悶絶!!どんでん返し』 監督 神代辰巳 1977  
『戒厳令の夜』 監督 山下耕作 1980  
『私は犯されたい』 監督 和泉聖治 1980

ビデオ


知るひとぞ知るゲイビデオが約500本

音楽


『薔薇門』 天井桟敷レコード 1972 (寺山修司と東郷健が共同で企画したアルバム)  
『ツブシタレ/好きなんや』 天井桟敷レコード 1972 (作詞 東郷健/ 作曲 山下毅雄 のシングル)

演劇


『悲しき人類』 脚本 竹中労  
『The Gay Orient』 脚本 竹中労  
『むーぶめんと・いん・とうごう』 脚本 団鬼六  
『東北ペールギュント』 脚本 太田竜
『男色受難史』 脚本 東郷健  
『無限』 脚本 東郷健
など多数

東郷健がモデルとなった戯曲・小説

『鳥たちは空を飛ぶ』 椎名麟三 著   
『懲役人の告発』 椎名麟三 著 

東郷健の私書箱

『新宿郵便局私書箱 209 雑民の会 東郷健』に意見・要望・悩みetc…。
送っていただければ、おこたえ致します。



『まえだ』のこと

 新宿ゴールデン街の『菜々津』で午後六時にあうことにした。新宿区役所のほうからゴールデン街にはいっていくと、『菜々津』はいちばん奥の路地にある。
 この路地にはもとは銭湯があり、ゴールデン街の女性たちがネグリジェ姿で湯 道具をもってかよったものだ。新宿の町からつぎつぎに銭湯がなくなっていく。ゴールデン街のこの花園湯はまっさきになくなり、新宿コマ劇場の裏の裏の歌舞伎湯、もとの都電の大久保車庫の前の喜楽湯、と消えていった。
 新宿ゴールデン街は戦後は青線だった。新宿二丁目などのもと遊郭の赤線に対する非合法のおんな屋街だ。非合法なのに、路地をはさんで、ちいさな二階建てのおんな屋がミニ団地みたいに整然と並んでいた。当局の御指導によるおんな屋団地だろう。非合法なおんな屋を計画的に一か所に集めたというのがおかしい。
 だが、赤線廃止で青線もなくなる。でも、店も女たちもたいていのこっていて、まえは非合法だがおおぴらなおんな屋街だったのが、あやしげな、あとではキャッチ・バーと言われるような店がおおい、いささかヤバい路地になる。
 そんななかで、もとの青線とはまったく関係のない、いささか素人っぽい店ができた。『菜々津』のななめむこうあたりにあった『お和』だ。『菜々津』も古い。ただし、このあたりの路地は、世間ではヤバいところだとおもわれているので、やはり、ふつうの人たちはこない。『お和』の客は週刊誌の記者などがおもだった
 ゴールデン街で古い店は、ほかには『プーサン』があった。しかし、『プーサン』は引越し、『お和』はとっくになくなった。モノを書く人たちがよくやってきた『まえだ』も古いほうだったが、ママの前田孝子が死んで、店はもうあかないだろう。しまったままのドアの前には、ときどき、だれかがお花を供えていくという。 

(田中小実昌 著 『サントリー・クォータリー38』 1991 サントリー より)



『まえだ』の跡地に、昨年(2006年)12月末、16年ぶりに東郷健が『東郷健』という店をひらいた。 オープンしてしばらくたったころだったようにおもう。わたしがひとり『東郷 健』のカウンターで飲んでいると、白髪のおじさんがこわごわと扉をあけて、「ここは、まえは、『まえだ』でしたか」ときいた。


 『まえだ』はカウンターに六、七人、そしてちいさな座敷があって、ここは四人すわれば、もういっぱいだった。
  奥に二階にあがる階段があったが、これも幅がたいへんにせまく、またやたらに急だった。その二階に長いあいだ、『まえだ』のママは住んでいた。
 ぼくが酔っぱらうと、「コミ、うえにいって寝ろ」とママに二階に追いあげられた。しかし、ぼくがひどく酔っていると、急な階段があがれなくて、ほかの客がみんなで、ぼくのお尻をおしたりした。

(田中小実昌 著『サントリー・クォータリー38』 1991 サントリー より)



 『まえだ』の跡地にオープンした『東郷健』は一階だけで、まえに『まえだ』 のママが住んでいた二階は、ちがうひとが店をやっている。『まえだ』の一階の中にあった二階に通 じる階段が、一階の店の外に設置されたこともあって、 まえとカウンターの位置が変わったり、座敷がなくなったりして、『東郷健』 にかつての『まえだ』の面影はほとんどない。申し訳程度に、『まえだ』があったころのままの柱だけが、東郷健の希望でそのまま残っている。
 その柱を三人で眺めたりしながら、彼らのはなしは『まえだ』のママになるのだった。
 「まえだのママはわたしを呼ぶときには、コラっ、健!でしてね、健は健でも中上さん(中上健次)は、健ちゃんなのよね。差別 だと思いました。」と、健ちゃんのあとにハートマークがつくように言ってわらった。
  白髪のおじさんも、やさしい口調ではなした。
 「まえだのママにね、自分もよくね、千円おいてさっさと帰れって言われましたよ。」


 おなじ路地にある『まえだ』のママはおっかない。じろっとにらみつけて、口をきかないこともある。それで、ぼくはちいさな声で言う。「あの、ブドウ酒、すこしクラサイ」
 すると『まえだ』のママは一升びんのブドウ酒を、ドデーンとカウンターの上におく。
 「飲みたきゃ、てめぇでかってに注いで飲んだらいいだろ、え」

(田中小実昌 著 『また一日』 1980 文化出版局 より)  


 話は、私の満四十歳になった夜にもどる。前田孝子さんは、電話で「こっちへ来たら」といったように思わず書いたけれども、実際にそんな優しい雰囲気があったわけではない。私は『まえだ』へ行った。客はいず、たしか、一、二 時間、私は、『まえだ』さんと、四十歳の感想などを肴に飲んでいた。
 そのころ、私は、この店で田中小実昌、黒田征太郎、滝田ゆう、眉村卓、筒井康隆、河野典生さんらを知った。野坂昭如、長谷部日出雄、佐藤重巨さんらも、この店の常連だったが、私は『カヌー』『魔里』時代からの知り合いだっ た。

(山本容朗 著 『新宿交遊学』 1980 潮出版 より)



 東郷健は、『まえだ』のママのことを「キツイけど、ええひとだったよねぇ」と関西訛りでいった。 わたしが読んだ本の中で、『まえだ』のママに「ええひと」という言葉をつかったひとはいなかったけど、『まえだ』のことをはなすひとが、「ええひ と」を口にする機会は案外おおい。はなすときに、先に「キツイ」ほうをたのしそうに言い過ぎたので、ちょっと悪い気がするのだろうか。わたしは『まえだ』も『まえだ』のママもしらないが、『まえだ』のはなしを聞いたり読んだりするのはたのしい。

 『まえだ』の跡地に『東郷健』がオープンしてからは、さすがにお花を供えるひとはいない。 いまは、東郷健が入口の横に植物をたくさん置いている。


文:ナニボウ
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